FLOWを求めて、STOCKを買う
行列に並びながら、僕はドーナツのことではなく、縄文人と弥生人のことを考えていた・・・。
今、娘の入院の付き添いで都会に滞在中。
妻の実家のすぐ近くにミスタードーナツがあります。
話題になっている「もっちゅりん」というドーナツがあるらしく、大人気で行列ができているとのこと。
正直、僕は全然知りませんでした。
SNSもそこまで追いかけていないし、流行りものにも疎い。
でもせっかくだし、一度くらい食べてみようかと思い、販売開始の20分ほど前に店へ向かいました。
すでに何人か並んでいました。
そして時間が近づくにつれて、列はどんどん長くなっていきます。
小さな子どもを連れたお母さん。
赤ちゃんを抱っこしたお母さん。
見ていると、
「これは後ろの人たちは買えないかもしれないな」
という雰囲気が漂っていました。
朝の入荷は限定60個
販売ルールは1種類につき2個まで。
もっちゅりんは3種類。
つまり前の人たちは自然と6個買うことになります。
もちろんルール違反ではありません。
みんな普通に購入しているだけです。
でも商品はあっという間になくなっていく。
そして僕の数人後ろあたりで売り切れました。
後ろに並んでいた親子は買えずに帰っていきました。
その光景を見たとき、なんとも言えない気持ちになりました。
怒りではない。
批判でもない。
ただ、切なかった。

リジェネラティブとは真逆の風景
僕は普段、屋久島でガイドをしています。
森を歩き、
沢を登り、
畑を耕し、
子どもたちと冒険をしています。
そんな暮らしをしているからか、
あの行列はどこかリジェネラティブな世界観とは真逆に見えました。
かわいい顔をしたドーナツ。
でもその裏側では、
「今買わなきゃなくなる」
「早く並ばないと手に入らない」
「限定だから価値がある」
という消費者心理が強く刺激されている。
そこには欲望は見えたけれど、美しさは見えませんでした。
正直に言うと、
あのなんとも言えないもっちゅりんの顔が、少し悪いやつに見えました。
もちろんドーナツに罪はありません。
でもあの顔の向こうで誰かが笑っているような気がしたのです。
気づいているけれど動けない
最初は、
「前の人たち、後ろの子どもたち見えてるよな」
と思いました。
このペースだと売り切れる。
自分が少し減らせばもう少し多くの人に行き渡る。
そんなことは誰でも分かる。
でも誰も動かない。
もちろん僕も含めてです。
ここで面白いなと思ったのは、
気づいていないわけではないということ。
気づいている。
でも動けない。
あるいは、
感情に蓋をして合理的な消費者として振る舞う。
そこに共同体の不在を感じました。
共同体ではなく、共欲体
田舎には共同体があります。
良い面も悪い面もある。
でも少なくとも、
「あの子も欲しいだろうな」
という感覚が働く場面は多い。
祭りでも、
餅まきでも、
漁でも、
畑でも。
まず場があって、その中に自分がいる。
ところが都会の行列にはそれがありません。
隣の人との関係性はない。
次に会うこともない。
未来も共有しない。
だから自然と、
「取れる時に取る」
が合理的になります。
僕は最近、「共同体」ではなく「共異体」という言葉を考えています。
同じ価値観ではなく、違いを持ちながら共に在る関係です。
でもあの日の行列は共同体でも共異体でもありませんでした。
そこにあったのは、
共通の欲望だけ。
言うならば、
共欲体
だったのかもしれません。

縄文人のFLOWと弥生人のSTOCK
そんなことを考えていたら、ふと縄文と弥生の違いを思い出しました。
もちろん歴史学的な話ではなく、世界観の比喩です。
縄文人の暮らしはFLOWです。
魚は腐る。
木の実も腐る。
人も早く死ぬ。
だから溜め込むことよりも循環することが大切になる。
贈与があり、
祭りがあり、
共同作業がある。
豊かさは所有ではなく関係性の中に存在する。
一方で弥生時代になると農耕が発達します。
米を保存できるようになる。
余剰が生まれる。
すると初めて、
「持つ者」と「持たざる者」
が生まれます。
そこから、
嫉妬、
羨望、
制度、
境界、
権力、
そういったものが発達していく。
悪いことではありません。
文明も国家もStockなしには成立しません。
でも世界の見え方は大きく変わる。
豊かさが、
関係性から保有量へ移るのです。

ドーナツはFLOWなのに、システムはSTOCK
そして今回、一番面白かった発見があります。
それは、
ドーナツそのものはFLOW(ナマモノ)だ
ということです。
ドーナツは腐ります。
食べればなくなります。
本来は「今ここ」を楽しむための食べ物です。
沢の水や焚き火の時間に近い。
ところが、
「限定」
「売り切れ」
「入手困難」
という情報が付与された瞬間、
ドーナツはSTOCK化します。
食べ物ではなく、
確保する対象になる。
所有する対象になる。
価値は味ではなく希少性へ移る。
考えてみれば、
縄文杉も同じです。
本来はFLOWです。
景色は持ち帰れない。
体験も保存できない。
出会いも一度きり。
でも、
「踏破した」
「達成した」
「写真を撮った」
になるとSTOCK化する。
体験が実績になる。
肩書になる。

本当に欲しかったもの
あの日、行列に並んでいた人たちは何が欲しかったのでしょう。
ドーナツでしょうか。
もちろんそうです。
でも本当に欲しかったのは、
家族で食べる時間だったり、
初めての食感だったり、
話題を共有する喜びだったり、
そういうFLOWだったのではないかと思うのです。
ところがシステムは、
「確保競争」
をさせる。
FLOWを求めているのに、
手に入るのはSTOCK。
だから切なかった。
流れを感じる感性
都会で暮らしていると、流れを感じる感性は育ちにくいのかもしれない。
SNSもそうです。
白か黒か。
正しいか間違いか。
賛成か反対か。
すぐに答えを求める。
でも自然の中には答えがありません。
沢の水量は毎日違う。
天気も違う。
人も違う。
同じ景色は二度とない。
だから自然の中にいると、
物事を固定して見るのではなく、グラデーション
流れとして見るようになります。

僕が屋久島でガイドをしたり、
子どもたちと冒険をしたり、
畑を耕したりしているのも、
もしかしたらそのためなのかもしれません。
縄文に戻ろうという話ではありません。
文明を否定したいわけでもありません。
STOCKは必要です。
組織も必要です。
制度も必要です。
僕自身、色々と組織の役職をやっています。
むしろSTOCKの世界の中で生きています。
でもその中に、
FLOWを取り戻したい。
あの日のもっちゅりんの行列で見たのは、
単なるドーナツブームではありませんでした。
FLOWの器にSTOCKの論理が流し込まれた風景。
そして、
本当は豊かなはずなのに、
どこか不足を感じ続ける社会の姿でした。
だから怒りではなく、
切なさだったのだと思います。
そしてその切なさは、
ドーナツの話ではなく、
僕たちがどんな豊かさを求めて生きるのかという話なのだと思います。
でも、もっちゅりんは美味かった。🍩
悔しいけれど、あのもちもち感は確かに新しかった。
だからたぶん僕は、もっちゅりんそのものに違和感を感じたのではなく、その周りに立ち上がる風景に違和感を感じていたのだろう。
ドーナツは悪くない。
むしろ美味しい。
問題なのは、僕たちがいつの間にか「味わうこと」よりも「手に入れること」に夢中になってしまう社会の方なのかもしれない。

この文章は、屋久島で自然ガイドとして暮らす中で感じたことを書いたものです。
森や沢の中では、「持つこと」よりも「流れること」の豊かさを感じる場面がたくさんあります。
SOILでは、そんな自然との関わりを通して、自分自身とのつながりを見つめる時間を案内しています。